眼差しの暴力性

以下、性被害とミスジェンダリングについての記述があります。

すこし前に、私は公共交通機関駅構内で盗撮の被害に遭った。刑事から犯人の性別がわかるか聞かれたが、私には分からなかったし正直そんなのどっちでもよかった。性犯罪であることに変わりはない。警察署で事情を聞かれた際に、最後まで私は「女性の被害者」として扱われた。名前を聞かれてデッドネームを名乗らされ(現在、法的な改名手続きがまだな為、身分証の名前はデッドネームである)、名前を名乗ったあともある警察官から「お姉さん」と繰り返し呼ばれ、ため口で対応された。ミソジニーが伴ったミスジェンダリングである。すべてが悪夢のようだった。

この半年間は他者からの眼差しについてを自分の中でテーマにして、日常生活で視点をそこに置いていた。私は以前から創作活動において、ヌードという手法を選んでいるのはミスジェンダリングのともなうmale gazeに抵抗するためであると公表している。

でも実際には身近な人ですら、私をノンバイナリーとして認識することがままならない。

眼差す側の視点や構造をもっと分析しようと思い、注意を払うようになった。

ミスジェンダリングやマイクロアグレッションはバイナリーの刷り込みと人権についての教育や包括的性教育の欠如が深刻な国で生まれ育ったから仕方ない。いや仕方なくない。

私は他者と関係性を築くとき、必ず言葉を尽くす。ジェンダーアイデンティティセクシャリティの説明には心底うんざりしているが、言葉を尽くし合うことだけが唯一の方法だから。

でもジェンダースタディーズに触れていない大抵の人は、まるで大した問題じゃないみたいに私の説明を受け流す。

「自分にとっては女の子だから気にしないよ」

こんな言葉を聞くたびに私はもう何度も殺されている。

私や他のクィアの人たちが自分のこういった状況を話すのは、ともに在るためだ。こちらのわがままな要望ではない。それをほとんどの人が自分は困らないから大したことないと見積もって、人命と人権を揺るがしている。気づきもせず人を踏んでいる。自分を雑に扱う人間と関わりたくないのは誰でもそう。

ともに在るために本来なら当事者に説明させるのではなく、自分から知るべきであること。

最近になって自分が一番不安を感じるのは容姿を褒められたときと好意を示されたときだと気づいた。

私が選び、構築した装いを褒められるのは嬉しい。けれどそれが身体についてとなると、ミスジェンダリングされていることが多い。

また好意を示されること、これはとくに相手がシスジェンダーヘテロセクシャル男性に多いが、私がノンバイナリーであることを知っていても知らなくてもその事実を無意識に透明化して、私を女性として眼差していることが多い。

他のジェンダーセクシャリティの人からもミスジェンダリングはもちろん起こり得ることではあるが、社会の構造的なシスヘテロ男性による女性へのセクシズムに起因しているように思う。

こういった件に、私が出生時に割り当てられた性別が女性であることの影響を否定できない。他者が私をノンバイナリーではなく、女性として眼差すことは、私の身体に常に余計ななにかが紐付けられ、望まない形で表現され自分に渡されてしまうこと。人格や尊厳を踏みにじることである。私の身体は女性の身体でなく、ノンバイナリーの身体だ。そして私の身体は私だけの身体。ただそれだけ。

これは眼差しだけでなく、バウンダリー(自他の境界線)の認識も関わってくると思うが、他者へ好意を示す表現は常に暴力性を内在している。愛情もそう。他者から好意を示されること(またその内容)を必ずしも相手が喜ぶわけではない。信頼を構築し、合意を形成すること、ともに在るために知ること学ぶことをすることを怠れば、他者へ愛を表現することはただのエゴと陶酔になりかねない。そして暴力にも。人を愛したいし時々愛してしまうのに、愛が、眼差しが私の首に手をかけてくる。こんな悲しきモンスターでいたくないのに。もちろん好意を示すのがだめって話じゃなくて構造の問題ね。

なぜ人はバイナリーで他者を捉えようとするのか、何を理由にして判断した気になれるのか。表象(装いや体つき)とジェンダーセクシャリティは無関係である。勝手に眼差しているだけ。見たいように見ているだけ。あなたに見えていることがすべてではない。

人がどんな体つきでどんな声で、スカートを履こうがネクタイをしようが、髪を伸ばしていようが短かろうがその人のジェンダーアイデンティティに関係ない。装いは意思ではあるが表象は証拠ではない。

 

私が性被害に遭った日に着てた服、気にいってたし一番暖かいコートなのにどうしても着られなくなってしまった。セックスエデュケーションのあの子みたいに私にも燃やせたらいいのに。でもまだ無理。そこで代わりに、リサイクルショップで見向きもされずに売られていたオレンジ色のレザーコートを買った。誰が着るんだこんなの、きっと私だけだろう。

そういえば友達が以前、私の装いに関してこんなすてきなことを言ってくれた

紫文さんはどんな服でも掌握できそう、街が紫文さんのための背景になったみたいだった」

そう在りたいと私は自分のことを信じている。私にとって装いは意思である。そして人間は言葉を持っているし知ることができるし、自ら眼差しや構造を解体できると。私は信じたい。

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私と普段話す間柄のひとでも最近親しくなったひとでもこの先出会うひとでも、もしなにがミスジェンダリングになるかわからないから知りたいと思うなら聞いてきてほしい。

ほんとは説明したくないけど、推測されたり勝手に線引きされるよりはいいので。ともに在るために学ぼうとすることが大事。そしてほかのクィアのかたはあれこれ聞かれたくないひとももちろんいるので、私が大丈夫なことがみんなも大丈夫なことではないです。言葉を尽くし信頼、合意を形成することもとても大事。