愛だけをやるために

この間、友達と「恋じゃなくて愛だけやりたい」と話していた。

世間が「恋」と呼ぶそれはゲームじみていて「恋」をやりたい人たちはゲームじみたそれ自体を目的として、実のところは恋をしてるときに分泌するドーパミンを求めているだけではないか。鉤括弧つきの「恋」はその人を見つめることが、見つめ合うことが目的ではないような気がして私には居心地が悪かった。

どれだけ時間がかかっても、言葉を尽くし合って信頼しあえる関係性を構築すること、共に在るために知るということが愛をやるということだと思う。少なくとも私はそう思いたい。

触れても触れなくても、関係性に呼び名があろうとなかろうと、共に在ろうとしていくなかで一緒に時間を過ごすこと。

ベンチに腰掛けていつまでも話しが続くような、約束も捧げることも利害も駆け引きもなしに。私はそれがやりたい。愛だけをやりたい。

でもいまのところ、私はジェンダーアイデンティティセクシャリティも生育歴も複雑すぎて、愛に辿り着く前に、誰かの喉に触れるたびに終わってしまう。私だけが愛をやろうとしてもうまくいかない。愛はずいぶん遠いようだ。

それにこの先もずっと自分が美しさを見出せるものだけに命を燃やしていたいし、それを守るために怒るし抗う。それができなくなるようなふざけた愛ならいらない。

以前はさみしくなるたびに花屋さんで花を買っていたけれど、黒柳徹子さんがなにかのインタビューで「美しい思い出があるだけで生きていけるから寂しくない」的なことを言ってたよと、友達に話していたら気づくとふたりで泣いていた。友達はユニコーンに似ている。

ユニコーンが涙を流すと、水のない場所にも大きな波紋が広がるらしい。なんて美しいのだろう。

愛だけをやるための答えは出てこないし、答えを出そうとしなくてもいいのかもしれない。それにデヴィッドボウイは遠くからも愛せると言っていたから。

朝方に食べたもんじゃ焼きや、幼い頃の目覚めのピアノのお話が、銀河に横たわる絶え間ないお喋りが、ユニコーンの波紋が、

私たちに降り注いだ愛の断片のようなものたちが、この先も私たちを生かすだろうから

もしそうなら、海を恋しがる人魚みたいな彼のひとが今度、星を見るときは上着を忘れませんように。ほんとうはどこへだって行けるってことを思い出せますように。

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