ノンバイナリーである私は説明することにも痛みに耐えることにもうんざりしている。
毎日のように日常のなかにぬるっとあふれ、小石のように投げつけられれば痛みを感じる。
その度に私は人間なんだったと思い出す。
投げ合ってもいいのは花束だけだ。同じものなどないばらばらな一輪ずつの花束でよろしく。
これは最近のこと。
他者から「女の子だから○○好きでしょ?」とふいうちで問われて、なんとか言えたのが「女の子だからということはありません。」これが精一杯だった。
本当は「私は女の子ではないですしそれはジェンダーバイアスによる偏見です」と言いたかった。また、「○○の彼女」とか「○○の奥さん」誰かの所有物のように言われることもよく耳にするし、かつて私も言われたことがあった。
パートナーの有無に関係なく、これはアサインされた性別が女性であるノンバイナリー当事者にとっては、ミスジェンダリングと個人として扱われないという二重の加害。
他者とのコミュニケーションにおいて全く必要ない表現。
相手や場面によってはちっちゃい抵抗しかできないし、それすらできないときもある。
けれども毎日血を流したままであとどれだけ立ち上がり続ければいいんだろうか。
変わるべきなのは社会の構造であり、ひとりひとりに刷り込まれた認識を自ら解体すべきだ。
ブログにも何度も書いてきましたが、ネットなり本なり調べりゃすぐ知ることはできます。
そしてそれをしないでいられる、困らないでいられるあなたには特権と加害性があります。
知ること、無自覚な加害をしないようにすることはあらゆるひととともに在るためにすべてのひとがすべきことです。
私は自分より若いひとたちやこれから生まれてくるひとにこんな目合わせたくないし、死ぬときデッドネームで死にたくないから生きることも草の根かきわけるのもやめないけれど、やっぱり毎日痛みを感じています。
私たちクィアは毎日をそういう構造の中で生きている。引き裂かれながら。
シスジェンダーじゃないこともミスジェンダリングやマイクロアグレッションされることも、大したことないと見積もられすぎている。
人命を揺るがしてる自覚を持ってくれ人類。
なりたかった自分になるのに遅すぎることはないと、かのジョージエリオットも言葉を残している。いくつになろうと知ることができるのは、人間という愚かでかわいい生き物の数少ない美しさのひとつだと私は思います。
こんな痛み、私たちが感じていることも、困っていない人たちが無自覚に他者へ与えていることも、慣れてるけど耐えちゃいけないことだよ。
説明にうんざりしてるけど一応解説
ミスジェンダリング(その人のジェンダーアイデンティティと異なる扱いをする差別行為)
マイクロアグレッション(無自覚な、悪意のない差別)
シスジェンダー(出生時に割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティが一致し、それに従って生きるひとのこと。ジェンダー・アイデンティティにおけるマジョリティ)
デッドネーム(ノンバイナリーやトランスジェンダーの当事者が出生時に割り当てられた名前、改名する前などのもう使用していない名前、また本人の合意なくその名前を呼ぶことはデッドネーミングという。)