誰のものでもない薔薇

私はこの夏の初めからクワロマ、クワセクを自覚し、身近なひとたちと新しい関係性への合意を形成、ポリアモリーを実践している。

そもそもノンバイナリーである自分に向けられる眼差しはいつもミスジェンダリングがともなうことが多いのだが、さらにそこに異性愛や一対一の関係をさも当然として、私のセクシャリティと違うものが勝手に乗っけられていく。

時として応えることができない期待ものせられてしまうし、規範をそうだと信じてやまない人からは規範から外れることに対して憎まれる。

言葉を尽くした人にさえ、自分には女の子にしか見えないから大丈夫と言われてしまう。

あの人の予定を私に聞くのはなぜ?

誰かとニコイチになった覚えはないのに。

私を自分だけの物だと誰かに言われるたびに、ああほんとにしらけちまうぜ。

誰かが誰かの物だなんて暴力だと思う。

 

話はそれるが、私はその日の気分や表現したいテーマを持って装いを構築する。

先日、絵画のためのオシレーターの演奏を聴きに行った。気温のせいか、その日私は王家衛作品を意識してシルクのチャイナドレスを着て京王線に乗った。明らかに京王線に似合わなくても別に構わなかった。その日はその服しか着たくなかったから。そんなふうにロマンを優先することがある。私はかなりロマンチストな人間である。

だけれど、資本主義とも相性が良いロマンティックラブイデオロギーでいまだに回っている社会はめちゃくちゃどうかしてると思う。

私がクィアであること、今の日本の社会的構造や規範に批判的であることとロマンチストであることはどれも全然成り立つので。

 

私がただ在るということ、身体がただの器だということ、名前もなしに、誰とも関係なしに。どうしてそれがかなわないんだろうか。

言葉を尽くしてもまるでひとりでやってるみたいなwaterful ring toss gameや在ることと眼差されることの視差をなくす旅はこの先も続く。

ままならないことは多いけれど、確実に風通しの良い関係性もわたしのそばにある。誰のものでもない同士で響きあうことが私たちにはできる。

終わらないでいるための約束や、捧げること、愛の客体になることは私にはできないけれど、ひとりひとりとしてなら誰かの人生に時々居合わせていたいと思っている。

 

写真は本文とは関係のない

この前寄り道したジャズバーのローズモヒート

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詩 過去作再掲

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「発火点」詩 嶋田紫文(2022年6月)

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「音楽」詩 嶋田紫文(2023年5月)
特定しない親愛のきもちや居心地がいい距離感の感じがする曲たちでプレイリストを作りました。よければどうぞ。

spotify

https://open.spotify.com/playlist/7mEFrc2ba1hRFimtAP2TEH?si=xawcGSf9RUCfCQLUXtkwFg

Applemusic

https://music.apple.com/jp/playlist/name-less/pl.u-NpXmD64FmDZzMbq