不在への眼差し/未知への憧憬

被写体をした作品を見返して最近気づいたことがある。私はカメラの前でいつも無意識のうちに不在(非在)の者、目の前にはいない人へ眼差しを送っているのだと。亡くなった祖父母、憧れのひと、会わなくなったひと、写るの好きだろと1年前に気付かせてくれたひと。お守りのように、なんとなく思い浮かべて目の前にいるつもりでカメラの前に立つと勇気を持てる気がするからついやってしまう癖や習慣に近い。それが良いことなのか良くないのかいまいちわからない。

もちろんそうして自分が写った作品たち良い作品だと思う。それはカメラマンさんたちのおかげでもあります。

でもちょっと自分がそういう表情したもの、増えすぎちゃったからしばらくそのやり方は控えようかと。

あと今は撮影者と被写体どちらかが主体になりすぎず対等なバランスで、一枚の写真に写らないものまで感じ取れるような、伝わってしまうような作品に携われたらなとひそかに思っている。目指しているものや感性が近いかたと作品を作ることができたら嬉しいです。

詩だと私は基本的に憂いや痛み、光を見いだすこと、過去や不在を愛することをよく書いてた。

でも今月新作の詩集が出来上がってから、

すべてと生きていきたいけど、不在を愛でるのはもういい…という気持ちになった。

過ぎ去ったもの、もうないものは痛みや悲しみがともなうことすら美しくなってしまって、離れがたい。けれどわざわざ反芻しなくてもきっとまた思い出したならその時は違うことを思えるはずだからあえて今は距離を置きたい。

私はいつだって人混みで逆らって歩くようなどこか違う人に見惚れてしまうし、すれ違い影響しあって生きていることに心が揺れるから、その揺れた先をずっと追いかけていたい。

いつかは誰かの人生に深く関わり、その人が何を見て何を思い生きるのか、自分がどんなふうに感じるのかを知りたい。

切り取ることも誰かに見せてあげることも、間に合わない消えゆく美しい瞬間や面と向かって言えないこと、言うには遅すぎたこともありすぎるから、そういうことがなかったことにならないように、すべてと生きるために詩を書くこと、写ることをやっていくと思う。