あたまのどこかで、おとぎ話も毛皮のマリーズも銀杏BOYZも少年のための音楽なのだから、自分のための音楽ではないのかもしれないと思っていた。
そう思いながらも私はいつだって男の子に憧れていて、イヤホンから流れているあいだだけ少年になれた、憧れが叶えられる気がして、聴いてきたのだなと最近になりふと気づいた。
自分には生活のあらゆることが女の身体に生まれたパターンとしてしか存在していなくて、不自由でそれがどんなに嫌でも自分は自分でしかなく、身の置き場がないような感じがして、いつもここじゃないどこかへ行きたかった。
それでも落ち込むときに聴きたい音楽があって、憧れがあって、心がばらけてしまうのを最小限に食い止めていられたのかもしれない。
反抗的な少女の自分も、どこかにいたかもしれないきっと引っ込み思案な少年の自分も、少女でも少年でもない自分も今はどれもがわたしだったのだとわかる。
今年の夏の始めに出会って別れた人が
「次の誕生日がきたら、男の子じゃなくなっちゃう」と言っていた。
彼は喫茶店で何時間も続いたお茶で、色んなロックスターのものまねをして笑わせてくれた。子供の頃からあまり笑わずよく怒ってるの?と聞かれていた私があんなにずっと笑っていたのは初めてだった。
彼は瞬間で生きてる台風の目のような人で、でも何に美しさや格好良さを見出すかちゃんと自分で決めていて、憧れに対する眼差しが真っ直ぐで揺るがず、なんて美しい人なんだろうと私は思っていた。
彼は私が憧れた男の子。私がなりたかった男の子だ。きっとこの先も。
以下は日記の引用
7月29日
[ロックなら「男らしく」あるべき? おとぎ話・有馬が「男の子の涙」を歌い続けた裏にあった苦しみ]というインタビュー記事https://www.cinra.net/article/202207-otogivanashi_ymmtsclを読んでからおとぎ話の「US」を聴いた。風通しの良い窓辺で鳴る愛だ、これは自分のための音楽だと思えた。
8月3日
ボビー・ギレスピーの自伝を読み始めた。
私の憧れの人、ニイマリコさんが書いためちゃくちゃ熱いレビューを読み、買いに走った。
https://ave-cornerprinting.com/niimariko-08072022/
8月8日
初めてドレスコーズのライブに行った。
10代の頃にボロいお下がりのiPodで登下校もバイトの帰りも毛皮のマリーズを聴いていたけれどライブを観るなんてまだ早いとびびり続けマリーズもとうとう観れないまま大人になって、、でもなぜだかどうしても今日行かなきゃだめだと思った。
8月に革ジャンで現れてハイキックに投げキスを繰り出しながら言葉を手渡しするように歌いかける志磨さんを見て、ロックスターはほんとにいたんだ!って完全にぶち抜かれてしまった。11歳のときにあった私にとってのロックンロールの原体験が27歳にしてひと夜で塗り替えられて、私はこれになりたい!と思った。拳を突き上げて自分の名前も忘れそうなほど踊った。
私のなかで呼び合うようにつながって、やっとわかったような、何かが大きく変わってしまったような。間違ってなかったなと思えたような。
私はこの夏に触れたすべての美しい衝撃を、抱きしめて詩やヌードかきっとまたなにかにしていくために暮らしを続けようと思う。